幸福な姫(後)
これは、一体なんなんだろう。 急に腕を強い力で引っ張られ、抵抗する間も無くバスタブに落ちた。普段は張り合っているものの、乱馬に力で勝てるはずもないことを重々に承知していて、けれどこんなにもあっさりとバスタブに、乱馬の腕の中に落ちていた。抵抗する間もなかったのは、たぶん呆気に取られていたからだ。 「乱、馬?」 そもそもが、おかしかった。格闘と名のつくものには目がなくて、だから今回の格闘スケートの勝負も、絶対に負けるはずないと確信していた。乱馬が負けるはずない。スケートは不得手な彼だけれど、それでもちゃんと、最後には乱馬が勝った。無傷でとまではいかなかったけれど、動けなくなるような大きな怪我もなく、彼はまた勝利の高みに君臨した。よかったと、私は胸をなでおろした。勝ったことはもちろん、無事でよかった。乱馬も良牙くんも相手選手も、みんなみんな無事でよかった。 それなのに乱馬は、私の顔をみて、泣きそうな顔を浮かべただけだった。 「勝ったぜ」 「みたか、あかね!」 「俺にかかればこんなもん......」 いつものみたいにそんな言葉が、当然彼の口から紡がれるばかりだと思っていたから、泣き出しそうな乱馬を目の前にして戸惑った。変な乱馬。それまではあんなに、はしゃいでいたのに。 普段は口を開けば「可愛くない」「不器用」「寸胴」それはもうひどい言葉の羅列を、おそらくは彼なりの愛情を以って並べる彼が、今日ばかりは目に見えて自分に優しく接してきた。それはひどく、居心地が悪かった。人のことをいえた義理ではないが、乱馬こそ不器用だ。そして私と違って、人一倍優しい人であることを知っている。その優しさに、ときどき甘えさせてもらっている自覚もある。でも今日の、まるで割れ物に触れるような彼の優しさを私は知らない。なによそれと苛立って、けれど彼の、泣き出しそうな表情がすぐに私から苛立ちの一切を払拭させた。乱馬の傷ついた顔は、乱馬に傷つけられること以上に胸にこたえた。ズキズキと、まるで心臓を荊だらけの蔓で締め付けられるような心持ちがした。 「......っあかね、こっちむいて」 壁に手をつきながら顔だけ力づくで振り向かされて、実家だというのに一体なにをやっているのだろうと、冷静な自分が俯瞰している。けれど「やめて」と拒否するにはあまりに、乱馬とのそれは良過ぎた。 「んっ......っ」 くちゅくちゅと、唾液の混ざり合う音が浴室に反響して響く。その羞恥にでさえ体が濡れた。壁を支えに寄りかかり、お尻だけを突き出すというどうしようもない恥ずかしい格好で(経験がないためにそれが一般的にも"一般的"な格好であるのかどうかさえ、私には判断がつかない)いまにもどうにかなってしまいそうなのに、壁についた自分の手の上に乱馬の骨ばった大きな手が重ねられているのを見ると、その愛おしさに彼から与えられるものならばどんなものでも飲み込めてしまえるような気がしてしまう。 唇を離すと、こんどは首筋を舐めとられ、脚の間の空白を彼の太く骨ばった指が埋める。生き物みたいに蠢くそれは、自分を気遣ってかとても優しく丁寧で、けれど的確にイイところを攻めてくる。そのたびに漏れる声をなんとか手で押さえ込もうとするのに、相手がこんなにも側にいるのでは隠したいものも隠せない。どうして最中の私の声はこんなに甘ったるいんだろうと、朦朧とする意識の片隅で思うと、後ろから「あかね」と余裕のない低い声で呼ばれた。 「ゃっ......んんっ」 「すげぇ可愛い」 あぁ、ずるい。乱馬はずるい。こんなときに、そんな言葉をいうのは。そう言うことが礼儀だとわかっていても、嬉しくなってしまう。私ばかりが舞い上がってしまう。 「いや......っぁ」 言葉の途中でうなじを舐められて、それ以上続けられなかった。嬌声ばかりが口から漏れ、ぴちゃぴちゃと、彼の指でかき回されて立つ音がなけなしの理性を崩壊させていく。中心をたまに指が掠めるのが狂おしくて、こんなこと初めてなのに、指だけでもうこんなにも濡らしてしまっている自分が恥ずかしい。涙とよだれと、もっと複雑なものたちのせいで顔はきっとぐちゃぐちゃで、それなのに体が火照って仕方がなかった。 「声、もっと聞きたいんだけど」 「だ、め......」 それでも容赦なく、空いたほうの手が私の乳房をつかみ、その突起を刺激する。彼のざらりとした舌がぴちゃぴちゃと耳を舐めとり、こちらは口を抑え込むだけで精一杯だというのに、私の知らないやり方で、私の体を探っていく。 「......あかね、痛かったら噛んでいいから」 そう言って突然、手で押さえていたはずの口に、乱馬のごつごつした指が侵入してきた。 「んんっ......ぁふ、やぁ......ん」 「口の中、熱い」 慌てて乱馬の手を引き剥がそうとすると、次の瞬間には表面を撫でるように前後に擦っていた指が、中心につぷりともぐりんだ。 「っ......あぁぁ」 指は少しずつ、さらに侵入していく。その圧迫感に息が止まりそうになると、たちまち乱馬の指があかねの口内を弄った。唾液が閉じることのできない口の端から、乱馬の手を伝ってこぼれた。 「......きっつ」 ゆっくりと押しあけていくように乱馬の指が侵食し、やがて止まった。けれど息つく間もなく、あかねの中を撫でるように指が動く。緩慢に上下しながら表面もこすられて、その摩擦の快楽に膝が震えた。 「あかね、息して」 なんでこんなに手慣れてるんだろうと思うと腹が立ったけれど、どうしようもない体の疼きを前にしては乱馬に従うしかなくて、大きく息を吐き出した瞬間、圧迫感がまた増した。痛みはなく、それでもその衝撃に思わず乱馬の指に歯をたてると、乱馬から堪えるような息が漏れた。その声がたまらなく愛おしかった。 「ふっ......ぁああっ!」 思わず涙がこぼれ、そのあとすぐに、妙な感覚に体中の肌が粟立った。私の中の、前がわの壁を乱馬の指がこすって、くちゃくちゃとかき回す音が浴室に反響している。それが中に押し込まれた指のせいなのか、緩慢に表層を撫でられているせいなのかはわからかったけれど、ぞわぞわとさざ波のように体を巡る感覚は徐々にその刺激を増していき、私は慌てて乱馬の手を押しとどめた。 「やだっ、や、待って!乱馬っ、なんか」 「なんか、なに?」 意地悪く言う乱馬を睨みつけると、指は動かされたまま、とびきり優しく口づけられた。そしてその隙に、乱馬を引き剥がそうとしていたはずの私の両腕は乱馬の手いとも簡単に拘束された。あぁ、こんなに余裕がある乱馬は、なんだか腹が立つ。例えば大きな肩幅だとか、引き締まった太い腕だとか、自分を簡単に抱きすくめてしまえるその逞しさだとか、そういうものを全部知っていたはずなのに、なにも知らなかったことが腹ただしくて、悔しい。 「気持ちいい?」 そんなの、答えられるわけないのに。意図せずにボロボロと涙がこぼれて、私は首を思い切り横に振る。 「だ、めっ......ぁ、もう」 「......あかね、イって」 耳元で囁かれた瞬間、乱馬の手が性急に私を攻め立てた。もうあげる声もなく、ただ、壁に張りついて泣いているような声でよがるしかなかった。なにかが体の奥底から込み上げて弾け、私はゆっくりと意識を手放した。 ** 部屋のベッドに横たわっていた。布団はかけられていたけれど、服は着ていなかった。体中に気だるさが残っていて、なによりもベッドサイドに乱馬本人が寄りかかっていたので、先ほどまでの、思い出すだけで卒倒したくなるようなあの行為が決して夢などではなかったことは、いわずもがな明白だった。 「......なんで、あんなに慣れてるのよ」 嫌味のつもりで形のいい後頭部に呟くと、くるりと振り返った乱馬が、私の姿を見るや否や顔を赤らめた。ついさっきまで、もっと恥ずかしいことをしていたというのに、いまさら何に照れているのだろうかと文句の一つでも言ってやろうとして、やめた。もう少しだけ、この気だるさが放つ余韻に体を預けていたかった。 「慣れてねぇよ。おめぇがよくなればって、必死だっただけ」 「あ......そう」 舌が絡んでうまく言葉が出てこない。調子が狂うのはやっぱり乱馬が優しすぎるせいで、でも決して、心地の悪いものではなくなっていたことに安堵の息を漏らす。だって乱馬は、もう泣きそうな顔をしていない。 「言っとくけど、謝んねえからな」 「え?」 「その......こういうことになったの」 あぁ、そうだ。彼はこうみえて実直だった。普段はちゃらんぽらんで、お調子者で、けれど彼なりに筋だけは、どんなにそれが不都合なものであったとしてもきちんと通す。ズルをしてしまえば、もっと多くのことが簡単に彼の手に入るのに。決して誤魔化したり嘘で塗り固めたりしない、不器用で優しい、私の許嫁。 「謝られたって、困るわ」 そんなことよりも。ベッドに横たわる自分と、ベッドに寄りかかる乱馬との距離がもどかしいのはどうしてだろう。あかねの頭の下には、枕の代わりにバスタオルが丁寧にたたまれて置かれていた。濡れたあかねの髪がベッドを濡らしてしまわないよう、乱馬が敷いたのだろう。そういうところの気はきくのに、肝心なところでこうして距離をとるから、みんなその距離を埋めようと彼を追いかけるのだ。強く美しい中華飯店少女も、同じ許嫁でありながら素直な彼の幼馴染でも、スタイル抜群な新体操部のエースも、みんなみんな。 私は追いかけるのが苦手で、けれども義理堅い乱馬は私が勝手に掘った溝を、いつも飛び越えてきてくれる。伸ばされる手がなくなれば、迷子になるのは私のほうなのに。 「乱馬」 呼びかけると、びくりと乱馬が肩を震わせた。けれどそんなことに、もうこちらも構っていられない。 「寒いわ」 布団をめくり上げて、柄にもなく顔が熱くなるのを感じながら、それでも続けた。 「そばにきて、よ」 私は追いかけるのが苦手だ。かといって「追いかけてきて」と叫ぶ勇気もない。だからいつも、少しだけ背伸びする。自分が強くないことは知っている。不器用なことも、所詮は凡人の域を脱しない、普通の人間であることも。乱馬が私のペースに合わせてくれていることも、ちゃんとわかっている。わかっていて、けれどいつまで続くのか、それが乱馬次第であるということが私は怖い。彼と、彼らとおなじ土俵に立てなければ、私なんてすぐに埋もれて、見えなくなってしまう。彼に見失われることが怖いから、私はいつも少しだけ背伸びをする。それが無茶に繋がってしまうことが、ときどきある。 乱馬はそういう私のことを、きっと誤解している。確かに誰かのために役に立てることは嬉しいし、頼みを断れないのは自覚しているけれど、私が危険を顧みない理由の半分は自分の身勝手さにあるのだ。決して優しさからではない。絶対に言ってやらないけれど、私はこのおさげの男の子との、許嫁という曖昧であやふやな関係をいつのまにか気に入ってしまっていた。少なくとも誰かに簡単に譲ってしまえるほど、安いものではなくなっていた。 「ダメ?」 乱馬が驚いた顔をした。ごくりと、域を飲み込む音が私のほうにまで聞こえた気がした。けれどそれはすぐにいつもの呆れ顔に変わり、やがて観念したような表情に変わった。 「おめぇ、人の気も知らねぇで」 ぶつぶつと文句を言いながら、乱馬が布団に入ってきた。大胆ついでに彼の肩に頭を預けると、ぐいと体を引き寄せられてひたいに口付けられた。戒めるように、力強く私の体を抱きしめる彼の体温が、この上なく心を穏やかにするのに、同時に落ち着かなくもさせる。 「乱馬って、意外にたくましいのね」 「はぁ?なにをいまさら」 「......知らなかったのよ」 知らなかった。この腕に抱きしめられると、こんなにも安心できること。同じ部屋にいるのに、触れない肌にもどかしさを覚えること。乱馬のキスはこんなにも優しいこと。彼が私にとって、最早名ばかりの許嫁ではなくなってしまっていたこと。 乱馬といると落ち着く。彼は私が、初めて信用できると感じた男の子だった。クラスメートをのぞいて、それまでは大嫌いだった対象だったのに、彼はそんな私の頑なさを少しずつ解いた。「大丈夫だ、あかね」彼が紡ぐその言葉が私をどれだけ安心させたか。「大丈夫だ、あかね」 くすぶっているものがいつもある。乱馬と過ごす時間のせいで、私の中にはいろいろな変化が生まれている。それがどういう種類のものであれ、遠まわしに私自身がそうさせている。まだ、これが正しいのかどうかはわからない。 乱馬に聞きたい。なぜ泣きそうな顔をしていたのか。なぜ私を浴槽に引っ張り込んだのか。なぜ私にキスをしたのか。どうしてそんなに優しくしてくれるのか。それがどんな言葉でも、例えばどんなにくだらない理由であっても、私は聞きたい。期待なんて微塵もしていない。ただ、知りたいのだ。そして知ってほしい。 「ねぇ、乱馬」 「ん?」 彼のタンクトップをきゅっと握った。身をすくめた私の頭を大きな手が撫でる。大丈夫、大丈夫と、まるで宥めるみたいに。彼の体温はすぐ傍にある。 きっととてつもない時間がかかる。これからもたくさんすれ違い、たくさん喧嘩して、不本意に、また彼を傷つけてしまうかもしれない。それでも。 「......聞いてくれる?」 全てがこのおさげ頭の男の子との間に起こることであるならば、それは案外悪くないものだと思えたのだ。