大人になれないぼくらの
彼女はいつも俺の2、3歩前を歩いていた。 その姿は実に悠々としていて、その勇ましさにこちらが溜息をつきたくなるほど立派なものだったけれど、それが実は危うく脆くものであると気付いたのは、 彼女と知り合ってからずっと時間が経過した後のことだった。 彼女は自分の弱みを人に見せることを、過剰なまでに嫌っていた。悠々としていたのではなく、彼女がそう彼女がそう見せようとしていただけだったらしい。 そうして理解と後悔のはざまに揺さぶられるにも関わらず、時々、そんな彼女の限界や弱さをふと忘れてしまうのは、やはり彼女がいつだって背筋をきちんと 伸ばして俺の前を歩いたからだと思う。 その危うさに気づけたことは幸いで、けれど、喜びをかみしめるには余りにも多くのものが擦り減って、入れ替わってしまっていた。 俺たちはもう子供じゃない。無邪気なまま、ただ笑っていればよかったあの日々はもうここにはない。 重たいを体久しぶりにベッドに預け、俺は大きく息を吐く。そうしてぼんやりと暗い7畳間の天井を見上げた。部屋の中はシンと静まり返っていて、 気配も鼓動もない。まるで切り取られてしまったように無機質な空間。瞳を閉じると、辺りは一層静寂な闇に包まれた。 「なんでここにいるの?」と天道あかねは言った。 もっと声をあげて驚いても不思議はないシーンであるのに、あかねの声はやけに落ちついていた。 それは1年ぶりの再会で、今は夜中の1時で、7月の夜風が昼間の熱で火照った体を柔らかく包む。あかねの髪は相変わらず長く風に揺れていて、 簡素なアパートの廊下に差し込む月明かりが彼女のほんのりと赤く染まった頬を照らしていた。彼女の躰から立ち込めるアルコールの匂いが鼻を掠め、 俺は思わず眉をひそめる。真っ白な膝上のワンピースが夜の闇に浮き立っていて、そこから細く形の良い足がスラリと伸びていた。 「探したから」 「なんで?」 あかねは相変わらず顔色一つ変えず、その淡々とした口調から彼女の心情を読みとるのは絶望的だった。彼女の話し方はまるで、ただ言葉に音を取りつけただけように機械的なのだ。ここにいるのは、本当にあのあかねなのだろうか。脳裏に浮かぶ高校時代の彼女の面影は、アルコールの臭いも相まって微塵も感じられない。 以前から人の目を引くほどに綺麗な顔立ちはしていたが、それでもあかねは以前の彼女よりもはるかに綺麗になり、少し痩せていた。 「家に帰ったら、おめぇが出てったった聞いて」 「だから、なんで探したのかって聞いてるのよ」 相変わらず、真っ直ぐに人を見据えるその瞳だけは変わっていなくて安心する。1年という時間の経過は、こうも人を変えてしまうのかと驚いていた中での変わらないそれは、 俺に多大なる安堵をもたらした。変化を求めていはずの自分が、まさか彼女の変化にショックを受けるなんて、なんとも滑稽な話だ。 時間というのは、なんと重く恐ろしいものなのだろう。 「会いたかったから」 「…………え?」 あかねが怪訝そうに眉をひそめた。 聞こえなかった、というよりも、何を言っているのか分からない、といった不満げな反応。 「オメーに、会いたかったから。だから探した。ここ4ヶ月くらい」 あかねは小さく溜息をついた。どこで培われたのか知れないけれど、まるでスクリーンの向こう側で優雅に成される他人事のような溜息だ。 彼女はコンパクトなショルダーバックの中から鍵を取り出し、俺の前までコツコツとヒールを鳴らしてくると、ガチャリと鍵をドアノブに差し込んだ。 「上がれば?」と俺を促す彼女の上目遣いにドキリとするけれど、同時に奇妙な違和感が後ろ髪を引く。 嗅いだ事のないシャンプーの香りと香水の香り、そして酒臭が風に乗って漂う。 それがあかねのものなのか、それとも別の誰かの移り香なのかは分からないけれど、その香りが鼻孔をくすぐった瞬間、心臓が激しい痛みに悲鳴を上げたのは 間違いなかった。 「何も無いけど」 そうして通されたあかねの7畳間のアパートには、本当に何も無かった。 備え付けのキッチンとバストイレ、それからベッドと冷蔵庫と電子レンジが置かれていて、フローリングの床には絨毯が敷かれている。 その中央には小さなテーブルがちょこんと居心地悪そうに置かれている。それだけだ。テレビやぬいぐるみはなく、女の子らしい置物や装飾もない。 天道家のあかねの部屋とは少しも似ていない、とても簡素な部屋だった。 「ビールでいい?」 「あ、あぁ」 二人きりで酒を飲むのは初めてだ。中国へ旅立つ前は、よく大介やひろしたちを交え6人で酒を飲んでいた。 あの頃はまさか、あかねが住所さえ知らせずに天道家を出て、そうして1人で暮らしているアパートへ自分が押しかけて、 こうして酒を飲むことになるとは微塵も思わなかった。 「いつ、中国から戻ってきたの?」 「4ヶ月前」 「もう、らんまには戻らないの?」 「あぁ」 答えて、俺はビールを流し込む。 炭酸とほのかなアルコールが火照った体中に染みわたっていくのを感じる。 昔は好きになれなかったビールの味が、こうもウマく感じるようになったのは一体いつのころからだろう。 「オメーは飲んで大丈夫なのか?」 「え?」 「飲んできたんだろ?外で」 蛍光灯の下に来ると、あかねの色の白さはより際立った。 だからこそ、頬を染めるその赤も一層に際立つ。 「平気よ。赤くはなるけど、弱いわけじゃないの」 そうしてあかねは、とてもコクコクと喉を鳴らしてビールを飲んだ。 僅かに潤む瞳や紅潮した頬をぼんやりと眺めながら、俺は何も言わずに、再びビールを口に含む。 そうして無言で一本目を飲み終え、2本目を空けて二度目の乾杯をしたときだった。 「なんで会いに来たの?」 テーブルの上で頬杖をつきながら、あかねが俺の顔を覗き込んだ。 その表情にどこか昔を彷彿させるあどけなさが含まれていて、俺を堪らないくらい落ち付かなくさせた。 「オメーに会いたかったから、じゃダメか?」 「……いつも勝手ね、あんたは」 そこでようやく彼女が表情を変えた。 クスリと口元に笑みを浮かべ、勢いよくビールを飲み干す。 「なぁ、あかね」 「んー?」 「好きなんだけど」 瞬間、あかねが思い切り咳込んだ。 そうして訝しげな眼差しを俺に向けた。 「……何言ってんの?」 「何って、告白」 「馬鹿じゃないの、アンタ」 照れもなく、人の告白を間髪入れずさらりと馬鹿呼ばわりする容赦の無さがさすがだ。 「今更何言ってんのよ」 「知ってる、今さらだってことぐれぇは」 「じゃあ何?わたしをからかってるの?」 あかねは相変わらず頬杖をついてけれども今度は挑発するように俺を見てきた。 強気で、一見隙のないような笑みを口元に添えて。 「からかってねぇ」 「は?」 「本気で、言ってる」 するとあかねの表情が瞬時に変化した。 口元の笑みを一瞬で消し去り、不満そうに俺を見据える。 「……面白くない冗談ね」 「だから冗談じゃ、」 「乱馬」 あかねが、小さなため息と共に俺の言葉を遮った。 ゲームに飽きてしまった子供がつくような、そんな冷たさの籠ったため息だった。 「わたしたちは、21歳になった」 「…………」 「まだ子どもよ?でも、もう子どもじゃない。少なくともアンタが中国に行った日から、もう1年経ったわ」 あかねの視線はぼんやりとテーブルの中央に落ちていた。 「色んな事があった。乱馬にも、そしてわたしにも。アンタは女にならなくなったし、わたしは1人暮らしを始めた。たった1年かもしれないけど、 すごく大きな変化よ。もう子供だった頃とは違うわ、お互いに」 あかねの話し方はとても注意深くて丁寧だった。ひどく何かに気を使うように言葉を選び、そして音にしている。 「無差別格闘流なら、もうわたしには必要ない。道場も、乱馬が使ってくれるならわたしは権利を放棄する。許嫁じゃなくても、アンタは 無差別格闘流を継げるわ」 あかねはそう言って立ち上がり、冷蔵庫の中から3本目のビールを取り出して1本を俺に手渡した。 そうして3本目の缶を一気に喉へと流し込んだ。 コクコクと、あかねの真っ白な喉が小さな音を立てて動く。 「それでも、俺はオメーが好きだ」 「……アンタ、わたしの話聞いてた?」 「あかねが好き。それを伝えたくて、帰国してからずっとあかねを探してた」 あかねは少し俯いて、再びビールを喉に流し込んだ。 俺の話を、まるで吟味し咀嚼するように。 「……いつから?」 「え?」 「いつから、アンタはわたしのことが好きだったの?」 やがてあかねは顔を上げ、真っ直ぐに俺を見る。 澄んだ瞳が俺を探るように見据えてきた。 「たぶん最初から、好きだったと思う」 「最初?」 「会ったときから、俺はあかねに惹かれてた」 瞬間、あかねの顔が曇った。 そうして悔しそうに、あかねは俺から視線を逸らした。 「乱馬は、いつも勝手でずるいわ」 「………………」 「ならなんで、ずっと何も言ってくれなかったの?」 その瞳が悲しそうに揺れて、表情が泣きそうに歪んだ。 俺は思わず息を呑む。1年ぶりに再会したあかねの、初めて本音の部分に触れた気がした。 「知ってたじゃない。アンタは、わたしの気持ちを」 「………………」 「でも乱馬は何も言ってくれなかった。そしてアンタはわたしじゃなく、らんまを捨てる方を選んだんでしょう?」 あかねはひどく自嘲的な笑みを浮かべ、頬杖をついていた腕でそのまま自らの髪をくしゃくしゃっと乱した。 去年の夏、俺は中国へ向かった。忌々しいあの呪いに、決着を付けるために。 あかねの気持ちを、たぶんあかねが言うように俺はどこかで知っていたのだと思う。それでも俺は前へ踏み出そうとはしなかった。 理由も、なんとなくではあるけれど、自分で分かっていた。 「……分かってるわ。どうせ乱馬のことだから、危険を伴う中国への旅の前にして、わたしの気持ちを見て見ぬふりしたんでしょ?乱馬に もしものことがあったとき、傷つくのはわたし。そう思ったから」 そう。それが俺の中のけじめだったのだ。 ちゃんとした男になるまでは、あかねに気持ちは伝えられない。あかねへの気持ちに気付いたときから、ずっとそう思っていた。 そして危険な旅が終わる前に、自分勝手な理由であかねを縛りつけるようなことはしたくない。それが俺の意地であったしプライドでもあったのだ。 「…………わたしはすごく弱い」 「え?」 「そしてアンタは、やっぱりすごく強いと思う。わたしだって武道家のはしくれだったから、アンタの強さがどれほどのものかくらいは知ってる。 乱馬は、すごく強い。わたしはアンタの強さには、相応しくない」 あかねはゆっくりと立ち上がり、俺の隣へと座った。 そうして腕を伸ばし、俺のシャツの胸倉を掴むと思いきり自分の方へと引き寄せた。 「…………っ……!」 一瞬、何が起きたのか分からなかった。 目の前には形の良い眉と閉じられた瞳。 鼻孔をくすぐる甘い香り。 そして唇に当たる、柔らかな感触。 けれどもそれに気付いた瞬間、その唇はすぐに俺から離れた。 「……好きだったわ」 「え?」 「わたしは、乱馬の事が好きだった」 「あ、かね…………」 「でももう、わたしたちは進まなければならない」 「何言って…………」 あかねは掴んだ俺のシャツを離し、そうして泣きそうな顔で笑った。 「乱馬は強い。その強さは、色々なものを引き付ける。望んでなくても、乱馬を色々な世界へと引きずりこむわ」 心臓が、鋭利な刃物でえぐられるような痛みを発した。 なぜだろう。 あかねは世界中の誰よりも愛しくて、大切な存在。初恋であり、今もその気持ちは色あせることなく、むしろ一層強く俺の中に残っている。 それなのになぜ、交わした口づけにこうも泣きたくなるほど悲しいのだろう。 「本当は、わたしもそこへ付いて行きたかった。1年前だって、本当はアンタと一緒に中国へ行きたかった。置いてけぼりは嫌だった」 「………………」 「でも、行かなくて正解だったって今ならちゃんと分かる。わたしはその世界へは行けない。わたしは弱いから、その世界では1人で立ち上がることすらできない。 乱馬の足手まといになることしかできない。そしてこれからも、わたしは乱馬を引きずりこむ世界へ入ることはできない」 あかねの言いたいことは分かる。 確かに俺たちがまだ風林館高校に通っていたとき、俺は多くの出来ごとに巻き込まれ、そうしてあかねを巻き込んだ。 それは全て、俺が望んだことではなかったし俺が元凶ではない事の方が多かったが、それでも色々なことがあった。あかねの命を危険に曝したことさえあった。 力を持つ者はそれに類似する性質を持つものを引き付ける。一般論ではなく、全て身を持って経験してきたことだ。 「それにさっきも言ったけど、変わったのは乱馬だけじゃない」 「え?」 「わたしも変わった。少なくとも去年と同じところに、もうわたしはいないのよ」 あかねの笑い方は、まるで自分を蔑むように切なくて、何かを言いかけた俺の唇に、あかねはそっと自分の人差指を当てた。 もうそれ以上言葉は必要ないと、そう言われた気がした。 乱馬に再開してから一週間が経った。 わたしはここしばらく、アパートへは帰っていない。 元々、乱馬に会いたくなくて家族にも住所を教えずに引っ越したのだ。半端に期待したくなくて、わたしは自分からすべて連絡手段を絶った。 携帯電話の番号も変えたし、この家の場所だって知人には話していない。 「引っ越そうかな……」 乱馬と会えたことが、嬉しくなかったわけじゃない。でも、もう昔のようには戻れない。乱馬は分かっていない。 時間が人間にもたらす影響が、一体どれほど大きいのかを。 わたしは弱い。乱馬にも言った通り、わたしは弱いのだ。 中国へ一緒に行きたかった。足を引っ張ることは分かっていて、それでも置いてけぼりは嫌だった。いつの間にか、わたしは上辺だけの許嫁のことを、本気で好きになってしまっていた。恋愛に左右されるなんて、絶対にないと思っていたのに。 あのときのわたしはまた幼くて、子供で、真っ直ぐだった。乱馬がわたしの気持ちに気付いていることに、わたしは気付いていた。 そのことはわたしを、ひどく傷つけた。 「なに考えてるの?」 「いいえ?別に、何でもないですよ」 同じ学部のこの先輩は、たぶんわたしを気に入っている。そしてもちろん、それを口に出したことは1度もない。 “知らないフリ”は、なんて都合がいいんだろう。 「次、何飲む?」 「じゃあ、白ワインを下さい」 受け取ったグラスを傾け、わたしは安っぽい笑顔を浮かべた。 乱馬は、恐らく自分の身に危険が迫ったら迷わずわたしを守る。それが例え、わたしの望まない形であったとしても。例え、その選択がわたしと別れるというものであっても、乱馬はわたしのためなら躊躇なくわたしを切り捨てる方を選ぶだろう。わたしのために。わたしが同じ立場に立たされても、きっとそうする。でもわたしと乱馬には決定的な差がある。 それは、わたしの生きている世界では決して起こり得ないということだ。わたしの身に危険が迫るような状況や選択肢にぶつかることはない。 けれども乱馬は違う。 わたしは弱くて、臆病でひどく利己的な人間で、だから恐れている。彼の隣にいることを。そうして究極の岐路に立たされたとき、乱馬がわたしを手放す可能性を。傷つきたくなくて、自ら全てを放棄した。限界を悟り、諦めることを覚えた。昔のわたしが今を知ったらなんと思うだろう。けれど、わたしはもう子どもだったわたしから脱したのだ。 「今日も友達の家?」 「いえ、今日は家に帰ります」 「なら送るよ」 それはあまり喜ばしくない提案だ。けれど、先輩にはたくさんご馳走になっているし、わたしが必要なものを隠さずに差しだしてもらうために、 向こうの提案を妥協点で呑むことはある程度必要なのだ。わたしはつくづくずるいなと思う。さらに性質が悪いことに、わたしはこういうときに、 どういう対処をすれば全てが円満に片付くのかを承知しているのだ。 高校生の頃、わたしは誤魔化しを嫌い、正義を愛していたように思う。いつから歪曲してしまったのか、ということを考えることすら諦めてしまった今とは違う。 「送っていただいて、ありがごうございます」 馬鹿じゃない男は、基本的に“無理矢理”行為に及ぶことをしない。少なくともわたしの周りで、一時的に理性を手放すことがどれほど将来の可能性を潰すか、 ということを心得ていない人間はいない。 だからわたしは、気軽に、自分に好意を抱くこの男と酌を交わすことができる。愛嬌を振りまいて、そのくせ自分の目的だけを上手く果たすことができるのだ。 「今日はありがとうございました。また誘ってください」 「いや、こちらこそ楽しかったよ」 先輩は格好良い。お酒の趣味も合うし、博学で頭の回転も速く、優しい。 そして何より、この人はわたしと同じで普通の人だ。 「天道」 「はい?」 そうしてアパートの階段を上ろうとしたとき、突如腕を引かれた。 「…………」 避けられなかったわけではない。 短い口付けを終えて、頬を紅潮させた先輩がわたしに背を向けた瞬間、今度はものすごく大きな力に引っ張られた。 腕を引かれるままに階段を駆け上がり、持っていた鍵を簡単に奪われ、乱暴に部屋の鍵を開けられると、わたしは息をつく間もなく部屋へと引き込まれた。 「……何やってんだよ、お前」 わたしの体をドアへと押し付けた乱馬は、低い声で言った。 わたしは、そんな乱馬をぼんやりと眺めた。自分の作りだした状況に、ひどく胸が痛んだ。 「キスしただけだよ」 「…………は?」 「なにを驚いてるの?」 挑発的な物言いに、あるいは彼の抱いている過去の虚構への侮辱に、乱馬が苦しそうに眉をひそめた。 自分の口から説明するよりも、見て分かってもらう方が話が早いと思ったのだ。時間がもたらしたものも、変化も、現実も、きっと乱馬には理解できないだろう。 アパートへ付いたときに、乱馬が来ていることはすぐに分かった。だから避けられたキスを避けなかった。 「言ったじゃない。変わったって」 「あかね、」 「もう、昔とは違うわ」 わたしの言葉に、乱馬が居心地悪そうに視線を逸らす。ほら、乱馬はやっぱり分かっていない。彼が好きなのは、昔のわたしだ。 だからこうやって、簡単にわたしを傷つける。逸らされた視線がいま、どれほどわたしを苦しめているのか、乱馬には分からない。 ズキッと強い痛みに腹が立つ。わたしの心は、今も昔に焦がれている。 「……っ!」 次の瞬間、わたしの唇は乱馬のそれによって塞がれた。 必死に抵抗するも、少しも力が入らない。 「……ん……っ……」 激しく、なんども角度を変えては口内を犯される。 舌を絡め取られ、呼吸も出来ないくらい深く口づけられた。 「……それでも、俺はオメーが好きだよ」 そうしてようやく解放され、顔を上げた瞬間わたしは息を呑んだ。 薄暗い部屋の中で、乱馬の頬に伝っていたものがわたしを動揺させる。 「乱、馬…………」 「自分勝手なこと言ってんのも、オメーを傷つけたのも分かってる。でも、どっちも譲れなかった!あの体質を捨ててからじゃないと、 堂々とあかねの隣には立てなかった。それほど俺の中であかねは特別だったし、覚悟なしに付き合える相手じゃないって思ってた。中国へ連れて行けなかったのは、あのとき俺にはオメーを守りきる強さがなかったからだ!」 「…………っ……」 「……確かに、あのとき俺はらんまを捨てようと必死だった!帰ってきてお前が家を出たって聞いたとき、何度も諦めようとした。結局俺は自分を 選んだからな。でも無理だった。俺はあかねが好きだ!」 固まるわたしに、乱馬は声を震わせながらもそう叫んだ。いくつもの滴が乱馬の頬を伝い、わたしの頬へと流れた。 わたしを抱きしめる腕は相変わらず震えていて、なんだかそれがわたしを堪らなく泣きたい気持ちにさせた。 乱馬が涙を流すところを見たのは、これで二度目だ。 朝起きると、そこにあかねの姿はなかった。 あかねの寝ていた場所へと手を這わせると、そこには既に温もりの余韻すら残ってはいなかった。 部屋の中は相変わらず何もなかった。 床の上に脱ぎ捨てられていた、シャツやズボンは丁寧に畳まれていて、もちろん、同じように脱ぎ捨てられたあかねの服はそこにはない。 俺はベッドから抜け出して、綺麗に畳まれた服を一つずつ身につけていく。そうして、服を全て身につけた時、再び自分の頬を伝う不可解なものに気付いた。 「…………くそっ……」 頭をくしゃくしゃっと掻く。笑える、あまりにも滑稽で。 俺たちはもう子供じゃない。 でも大人ほど器用にもなれなくて、いつも簡単なことで翻弄されて傷ついて、何かに失敗してからでなければ本当に大切なものにすら気づくことはできない。 子供じゃなくなった代わりに、自由を手に入れた代わりに、無邪気さを失って狡猾な嘘を覚えた。 本当は、心のどこかで気づいていた。 これが最後の悪あがきだと。 それでも最後の悪あがきに、一抹の希望を託してしまっていた自分がいた。 あかねは武道家であることを捨てた。俺は捨てなかった。それが、俺たちの選んだ選択であり、大人になるということだった。 「好きだ、あかね。この世の誰よりも、愛している」 もう、この言葉が届くことは二度とないだろう。 体に残る彼女の残り香は、そして彼女の真っ白な肌に残した印は、大人になりきれなかった俺たちの、心の内にしまい込んだ最後の悪あがきだった。